Naruki.K's Radio Head

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「かわいい」という実感が湧くとき

かわいいとされる「もの」を見て
『かわいい!』という「湧き上がる感覚」が
自分の気持ちから出てこない

かなり昔から、おそらく、物心ついた頃から既に、だと思う。
今に至るまで、敢えてこのような感じかたをしようと
意識したことも、意識して変えようとしてこうなったという
ことでもないので、これは自分としてはとても自然な感覚...

...だった。今までは。

2年半ほど前にSNSをはじめて以来、
いろんな人がいろんな、いわゆる「かわいい」ものを投稿する。
それに対していろんな人が「かわいい!」とコメントを入れる。

その流れを目にするたびに、自分の中に生じる違和感。
いくら目にしても、どれだけ多く目にしても、馴染めない違和感。

この違和感はなんだ?
この違和感を拭えないのはなぜだ?
なぜおれはみんなが言い表すように言い表せないのか?
なぜおれはその流れに自然に馴染めなくて楽しめないのか?

心の中に、苛立ちにも似た引っ掛かりをずっと持ったまま
ひとの投稿を見続けてきて、そういう「違和感」というカタチで
自分の感覚が周囲との摩擦として露わになってきた。
つまり、その引っ掛かりの正体が、
冒頭のようなこころもちであることに、ふと気がついた。

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かわいい花
かわいいペット
かわいい服
かわいい小物
かわいいスイーツ
かわいく盛り付けたごはん
かわいいぬいぐるみ、ゆるキャラ
かわいい顔立ち...

SNSでよく投稿される、これらが写っている画像。
ほんとうにたくさん、タイムラインに流れてくる。

それらはおしなべて多くの反応を獲得していく。
コメント欄にもどんどん蓄積されていく
「かわいい!」という感嘆、感情のほとばしり。

みんなが「かわいい!」と盛り上がっていても
その感情の中には入り込めない。
どこか、一歩も二歩も引いて眺めているような感覚。

そうは言っても、自分だって
たまにはこのような写真を撮って投稿することはある。

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この写真に映ったもの、光景。
それに対して「かわいい」と感知したことが引き金になって
感情が昂ぶって「かわいいですね!」という言葉が
感嘆的に自分の口をついて出ることがまずないのだ。

かわいいとされる「もの」に対して、
理屈でしか「かわいい」と思ってない。

『かわいい姿形ってそういうものだよね、確かに』
気がついてみたら、そうやって、引いてみてる。

それは確かに「かわいいとされるカタチをしているもの」だよね、
と、思考回路を経由して、理屈として認知する。
その上でようやく「かわいいカタチ」をしている事実を
説明する手段として「かわいい」という言葉が出てくる。

そこには「かわいい!」と湧き上がる感情を伴って
「かわいい!」という言動が出てくることがないのだ。

いつしか、目を背けがちになってしまうことが
たびたび起こる。

おれは「かわいい」という感覚に共感できない奴なのか。
たいていの人には備わっているらしい「かわいい」と
感じ取る感受性がこころの中から欠落しているのか。

孤独感が募る。

自分はおかしい人間なのか?
冷たい人間なのか?

孤立感が強まって、欠落感が生じて気が滅入ってくる。

どうしてこういう気持ちになってしまうのか。

「Narukiさんならではの不思議な感覚」って
ある友だちは言ったけど、その友だちは、
自分のそんなめんどくさいところに
粘り強くフォーカスしてくれた。

ずっともやもやとして見えなかったものが、突如見えた。

自分が「かわいい!」という感情の昂ぶりを掻き立てられるもの。
それが、今さら、突如、ハッキリとわかった。

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「かわいい」姿形を映し出したもの。そのもの自体よりも。

そのものを、そのように見た、
そういう視点を持ち合わせた表現者の「感性がかわいい」のだ。

そんな光景などを映し出した写真などの「もの」から
醸し出されて見えてくる、表現者の感性・発想・発見・驚き。
それこそが「かわいい」。

こういうこともある。

ひととの対話やふれあい、感情の揺れ、表情やしぐさの移ろい
そういう、連続的な流れに対して
かわいらしさが垣間感じられたときにこそ
「かわいい!」という言葉が感情の昂ぶりとして出てくる。

例えば。

仲のよい友だちと、ひとつのごはんやスイーツを
分け合って食べているとき。

それを相手がどんどん食べていって
なくなってしまいそうになる雰囲気を感じて焦って

 「あーっ!だめーっ!こんだけわたしのっ!」
 「あげるって言ったやん!」
 「だってどんどん食べちゃうんだもん!」

なんて感じで、残りの分け前を主張するときなんかの
その口調、表情、しぐさ。そこに現れる気持ち。

そういう人間くささこそが、
こころから「かわいい!」という感情の昂ぶりとして
湧き上がって実感すると言える。

生身の人の息遣いに対して湧き上がる
「かわいい」という気持ち。
ちょっとしたテレとか戸惑いとか、
そういう、ひとの何気ない素の一面。

そういうのを「かわいい」と、感情を伴って実感するんだ。

自分の感覚では、「かわいい」という言葉の定義って
そういうすごく狭い範囲に限定されてしまっている、
そういうときにだけ思わず発する言葉として捉えている。

そういうことだということに、やっと自分で気がついた。

おれの感受性が鈍いんだってことではなかった。
「かわいい」という感覚を認知する神経が
そういう感受性が欠如してしまっているわけでは
なかったんだ、って。

気持ちがすっと軽くなった。

これからは、自分以外のひとの「かわいい」感覚に対して
もう少し寛容になっていけるかもしれない。

自分も、もうちょっと「かわいい」を感じ取る受容体が
広がるかもしれない。

きっと、それも悪くない。