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「ハンナ・アーレント」考えないことの寒々しさ、空恐ろしさ

7月末。暑い日の午前。
石川県かほく市西田幾多郎記念哲学館で開催されたイベント、
映画「ハンナ・アーレント」上映会へ出かけて、観てきました。
申込不要、入場無料。

ナチス戦犯のアドルフ・アイヒマンに言及するという点に注目しました。
アドルフ・アイヒマンホロコーストにおいてユダヤ人を強制収容所
移送する任務に主だって関わった人物である......というくらいのことは、
かなり過去にテレビか何かで観て薄っすらと憶えていました。

ヒトラーのことではなく、アイヒマンのこと。
そのアイヒマンと、その言動を見ていたドイツ系ユダヤ人の女性哲学者
ハンナ・アーレントがどんなことを見て語ったのか。
その辺りに興味を持ちました。

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西田幾多郎記念哲学館。
日本哲学の草分け的存在である西田幾多郎の生誕地・石川県かほく市
比較的金沢方面に近いあたり、海岸に近い高台にあります。

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正面の建物の右角にある入口を入って左手にある階段を降りて行って
上映会が開催される地下ホールへ向かいます。
ホールの客席には意外と多くの人が集まっていました。
ざっくり100人前後ほどいたでしょうか。
客席全体の3分の2ほどが埋まっていたと思います。

前日の夜には各地で花火大会や町の祭りなどのイベントが
多く開催されていただけに、その翌日、しかも午前中だったら
4分の1ほども入れば御の字ではとなんとなく思っていましたが
このような歴史的事件への言及に関心のある人というのは
結構居るものなのだなと、認識を新たにしました。

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ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの本質は「悪の凡庸さ」であると
主張したハンナ・アーレントの言葉、それを人々はどう捉えたか。
2時間近くの映画をひととおり観ました。

特に印象に残ったのはこのようなところでした。

  • アドルフ・アイヒマン戦争犯罪責任を問う裁判のシーンで
    彼の証言に如実に現れる見事なまでの当事者意識や罪悪感の欠如。
    その口調や表情の空虚さ。
  • ハンナ・アーレントの、表面を見るだけでものごとの是非を
    安易に判断することのない、どこまでも深層を見続けて
    その結果あぶり出した本質を主張し続けた一貫性ある態度。
  • ナチスの迫害、およびそれ以前から歴史的に多くの迫害を
    受け続けてきたユダヤ民族、そしてユダヤ人の「一般大衆」の
    善悪二元論で簡単にわかりやすく白黒をつけてしまおうと
    しがちになってしまう、ものごとに対する反応。
  • そんな同じ民族の「同胞」の態度と自分の主張との葛藤に悩む
    ハンナ・アーレント

ユダヤ人を強制収容所へ送る任務の指揮的役割を全うすることによって
結果的に多くの犠牲者を出した「戦犯」のアドルフ・アイヒマン
彼の言うことはとにかく、

 「与えらた任務を忠実に遂行しただけ」
 「そのことで引き起こされた結果に対する責任は自分にはない」

発言している内容も、口調も、表情も。すべてがのっぺりと平板で機械的
意識的にそうしているのか、無意識にそうなってしまっているのか、
どちらなのかはわからないけれど、いずれにしても一貫しているのは、

 当事者意識の欠如
 問題回避・責任転嫁
 目の前の行為が引き起こす結果への判断力の麻痺
 想像力の欠落

悪びれることなく無表情で、いや、悪びれているのかもしれないけれど、
結局すべて行き着く先は

 「どえらいことになったけどぼくのせいじゃないもん」

そんな様子。
彼の来歴に何があったにせよ、組織の歯車として壊れず破綻なく動くだけ。
自分の頭で考えない、判断しない、しようとしない、そんな寒々しい様相が
透けて見える感じに輪をかけるのが、「悪意のなさ」。
悪意ありきで引き起こされた無惨な結果を引き起こした人物を見るよりも、
得体の知れない空恐ろしさを感じてしまいます。

そして、そんな彼の所業や言動だけをあげつらってただ「悪い奴」と
断罪するだけで終わるのではなく、「彼の中の何が最悪の結果を
引き起こしたのか」という本質を考え続けて主張したアーレント

周囲の皮相的な善悪の判断と同調圧力にも決して与することなく、
根本に在るものに目を向けて考え続ける。
そんな「考え続けることが如何に大切であるか」というところも
アーレントは一貫して主張し続けたのだと思います。

 考えることで、人間は強くなる

 

映画の中では、アーレントは、アイヒマンの「悪に結びついた行為」は
もちろんですが、そこで終わらせないで「人が考えることや感じることを
やめたときの恐ろしさ」こそを、その事件を通じて世間に訴えたかったと
いうことが見て取れました。
そしてそれは、実際に世間に訴えかけることができた。

だけども、アーレントは、その先にさらに考えて訴えたかったことが
あったに違いありません。
アーレントの主張を理解できない、いや、理解しようともしない、
同胞であるはずのユダヤ人たち。そしてユダヤ人の近しい人々。
彼らもまた、自分たちの皮相的な善悪二元論から先へ踏み出せない。
そのことを目の当たりにして、

 自分の主張が、同胞の「悪意のない」皮相的な善悪の判断と
 その同調圧力を引き起こしている

そんな葛藤を抱え込んでしまったように見えます。
そして、そこへの明確な答えはないまま、映画は終わります。
この葛藤は、アーレント自身の中で解決したのだろうか?

それは、映画を観たわたしたちひとりひとりの今後に委ねられたと
いうことでしょう。

 

アーレントは哲学者。
哲学者であるが故に深く深く考え続けたのは間違いないでしょうが、
考えることは哲学者だけの仕事では決してない。

市井の民であるわたしたちひとりひとりが、

 「自分はどう感じるのか」
 「自分はどう考えているのか」
 「自分がどうしたいのか」

自分で考えたところへ拠って立たなければならないのだということ。

すぐに明快な答えが見い出せなかったとしても。
すぐに結果に結びつかなかったとしても、一向に先が見えなくとも。
それでもわたしたちが「自分の頭で考え続けていくこと」。

 誰かが、ではなく。
 世間が、でもなく。
 ましてや、実体がふわふわした「お国が」でもなく。

 自分たちが自分の頭で考え続けていくこと

民主的であること、平和であることの出発点はここにあるのではないか。
いや......そこにしかないのではないだろうか?